恩師、という言葉をO先生に使うのはいささか抵抗がある。
O先生は高校時代の音楽教師だ。そしてなにより、おれの所属していた吹奏楽部の顧問でもある。だからもちろん、とてもお世話になったわけだし「仰げば尊しわが師の恩」では当然あるのだ。
それでも「恩師」って言葉が引っかかるのは、O先生はきっとそう呼ばれるのを居心地が悪く感じるんじゃないかと思うからだ。あくまで思う、だけど。
O先生は「ぼくの好きな先生」の例に漏れず、「ぼくの好きなおじさん」だった。タバコの臭いはしないけど、変な先生だった。
授業では声楽の課題曲は『魔笛』だった。しかも合唱ではなく、男女でのデュエット。まず女子とペアを作る時点で童貞にはきっつい課題だ。幸い吹奏楽部のおれは何人かの女の子から誘われる。あれほど真面目に音楽に取り組んでいたことが報われた日はないかもしれない。
学年末にはテストの代わりにレポート。テーマは「モーツァルトの死」か「ジョン・レノンの死」について、どちらかを選択。ちなみにそのとき参考資料として観た映画『アマデウス』は、大好きな一本になった。
学生時代はトロンボーンをやってたみたいで、定期演奏会では度々一緒に吹いてくれた。音量はでかいけど、全然上手くなかった。でも「プロはそんなに練習しないよ」と嘯いて、本番ギリギリまで練習にも来なかった。
タクト持つのも好きだったみたいで、頼めばうれしそうに指揮もやってくれた。ただ、音源を聴かずに独自の解釈で振るから、部員からの評判はイマイチだった。
合奏は誰よりも楽しそうだったけど。
それから、こんなこともあった。
ある日部活の先輩から「これ見てみ」と渡されたクラシックCDのライナーノーツ。文末の署名にはO先生の名前と、「オペラ評論家」の文字。肩書きはオペラ評論家、高校教師なんてどこにもクレジットされてない。
何者なんだ、あなたは。
先生にそのことを尋ねるとニコニコしながら一言、「ぼくは音楽家なんだ」。
そう、O先生は教師とか顧問とかである前に音楽家だった。そして、ただの高校生であるおれたちにも、それを求めた。
土日祝日問わず長時間練習したがるおれたちに、「そんなに必死に練習しなきゃいけないのかい?」「それはなにかが違うんじゃないかい?」と言って、あまり練習に付き合ってはくれなかった。コンクールで『カルメン組曲』からの抜粋を演奏することになったわれわれに、「じゃあ原典にあたらなきゃね」といって、3時間近いオペラの映像(しかもLD)をやたら良い機材で観せた。合奏中に「ここはウィンナー・ワルツでやろう」と言い出し、そこから当時のウィーンの社交界について長々と話した。
きっと先生は吹奏楽"部"としての練習だったりコンクールで勝つための練習だったり、そういうものには疑問を持っていたんだと思う。
だって、O先生は"音楽家"だから。
どうしたってスクールバンドが陥る、「音楽的」じゃない悪癖の数々。軍隊式の「練習」。効率重視・コンクール映えする選曲や解釈。原典や歴史背景を知らないまま演奏する愚。
超然とした態度を取ることでそこに疑問を呈しつつ、でも生徒にそれを教える=強制することはしない。自らのスタンスを提示しつつ、押し付けはしなかった。
O先生にとって「教える」って行為はあんまり"音楽的"じゃなかったんじゃないかな、きっと。
もちろん、こんなことを考えるのは卒業してだいぶたってからで、教育現場の末端の下請けとはいえ自分も「教える」立場になってからだ。当時は「あんま部活好きじゃないのかな、めんどくさいのかな」くらいに思っていた。そうじゃないってことが今ではわかる。O先生は部活としてのおれたちも好きではあったんだ。だけど、"音楽"の方がより好きだった。それだけだ。そして、それは大切なことなんだ。
まあこんなこと書きながらも、どこかではそんな高尚なことじゃなくて「家で新しいレコード聴きたいから休日は休みたいなあ」、それだけなんじゃないかとも思う。もしそうなら、それはそれで一人の"音楽好きのおっさん"として、やっぱりおれは苦笑しつつ尊敬しちゃうのだ。
おれが卒業してしばらくして、O先生は退官してしまった。個人的に話したのはその後、ブックオフで偶然会ったのが最後だ。
先生はやっぱりクラシックコーナーにいて、楽しそうにCDを選んでいた。
「何かいいの見つかりましたか」みたいなことを話した気がするけど、先生が何買ってたのかは覚えていない。「アサコシは大学行ってるのか」あんまり行ってなかったおれはへへっと笑うしかなかった。でも、名前を覚えててくれたのは意外だけど嬉しかった。
O先生と最後に会った本八幡のブックオフはその後、閉店してしまった。でもまだ、『魔笛』のアリアはちょっとだけ歌える。